ひびはひかり

これまでの日々、これからの日々

東京を夢見て①

20代の前半を東京で過ごした。阿佐ヶ谷で一年、吉祥寺(に接した練馬区)で三年半。東京はまさに、青春の象徴だった。芸術に気持ちの拠り所を求めていたわたしにとって、東京という街は物語に溢れていて、そこかしこで新しいストーリーが生まれるのを体感できる街だった。

 

このブログは、2011年4月から2014年10月までの約三年半、わたしの東京での日々をたらたらと綴った記録である。

 

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大学時代、京都の西院にあった本屋でバイトをしていた。その時の店長が30代の女性で、東京から転勤してきたお洒落でイケイケのお姉さんだった。当時のわたしはサブカルにどっぷり浸かっており、つげ義春魚喃キリコandymoriの世界が正義だと思っていたので、パリピな店長を始めのうちこそ警戒していたが(パリピを何だと思っていたのか)、好きな作家や音楽が被っていることがわかり、次第に学校の先輩と後輩みたいに仲良くなっていった。恋愛話をしたり、大学生活の相談をしたり、一緒にサカナクションのライブを見に行ったり、バイト仲間で店長の家に押しかけたり、、20歳そこそこのウブな学生と仲良くしてくれて、いろんなことを教えてくれた。

 

バイトを始めて一年くらい経った頃から、本格的に就職活動が始まった。どんな職種につきたいか、どんな生活をしたいか、どんなことならやりがいを感じられるか。例に倣ってひととおり考えてみたが、上手くいかなかった。ひとつだけあったのは、「数年先の人生が見通せてしまうような仕事はしたくない」という、モラトリアムまっしぐらな希望。現実的な将来の夢というのは、いくら考えても浮かんでこなかった。本が好きだったから出版社で働きたいなあと思っていたが、じゃあ出版社に入ってどんなことをやりたいか?と聞かれると、何も答えられなかった。早く働いて自立したいという気持ちはあったが、自分にどんなスキルがあるかも分からなかったし、目標もなかった。

 

というようなことをうだうだと話すわたしに、ある日店長が言った。「君は東京に行きなよ」。君は芸術が好きで、それに触れて生きたいと思ってるでしょ。若いうちに、体力があるうちに東京に出て、いろんな物を見たり聞いたり考えたりしたらいい。東京以外はダメとか全然思わないけど、京都にしかないものがあるように、東京にしかないものもあるんだよ。それを経験しているのと、していないのとでは、これからの人生が大きく変わってくると思う。店長は真っ直ぐにそう続けた。かつて、東京だけにある「何か」を求めて東北から上京したという店長の言葉には、これから社会に出る若者を説得するに足りる力が充分にあった。

 

それから一年以上に渡って繰り広げられた就職活動であったが、東京の会社で、かつ芸術に関わる仕事を対象とした活動は就職氷河期の影響を真正面から受け、ご想像のとおり苦戦した。

 

あと数ヶ月で大学卒業という時期になっても、未だにわたしはひとつの内定も取れていなかった。そろそろ焦ってもいいはずだが、全くその気配は無かった。「どこにも受からなかったらフリーターになってこの本屋で働き続けたいなあ〜」と呑気に思っていた。親から仕送りをもらっていたから、時給800円のバイトをしながら一人暮らしすることの大変さなんて考えたこともなかったのだ。向こうみずだった頃。若さが、愚かで眩しいのはこういうことだと今はわかる。

 

そんなある日、偶然見つけた求人情報が吉祥寺の会社で、いつものように「どうせ落ちるけど」と思いながら惰性で履歴書を書いて送った。書類審査が通り、二次試験を受けるために吉祥寺に向かう途中で、会社の近くに井の頭公園があるのを知り、試験が終わったら行ってみようと楽しみにしていた。

 

そもそもサブカル大好きマンのわたしにとって、吉祥寺は憧れの街だ。住みたい街ランキングの常連で、文化と若者が集う街。吉祥寺を舞台にした漫画や映画、小説がたくさんあって、読む度にひそかな夢を抱いた街だ。お洒落な文化人は大抵吉祥寺に住んでいると思っていたし、かの井の頭公園にはかつて好きだった文化系お笑い芸人がよく出没すると聞いていて、いつか行きたいとずっと思っていた。その吉祥寺が、わたしを手招いている!