ひびはひかり

これまでの日々、これからの日々

SMAPを思う日々

Twitterのサブ垢を作った。登録時に生年月日を入れる欄があり、1988年…4月…と入力を進めていく。

そう、わたしは1988年のある春の日に生まれた。1988年、それは昭和の最後の年であり、平成の始まりの年。同級生は昭和63年、64年、平成1年生まれに分かれている、ちょっと特別な年。野球界では88年生まれは「ハンカチ世代」と特別視されてきたし、芸能界でも多くの実力派俳優が輩出されていたりする(どの年代にも実力派はいるけれど)。人は皆、生まれた年に何らかの結び付きを求めるものだと思っているが、例に漏れずわたしも、自分の生まれ年との関連性を見つけた時には、少し誇らしい気持ちになったりする。

さて、そんなこんなで1988年。それは、かの国民的アイドルグループ「SMAP」が結成された年である。1988年4月15日。わたしが生まれたのがその12日後なので、ほぼ同じ長さを生きて来たといっても過言ではない。2016年12月31日をもって解散したそのグループは、活動が続いていれば今年で結成33年、デビュー30周年を迎えていた。移り変わりの早いアイドル界で何十年、何世代にも渡って愛されてきたという事実だけでも例を見ないことだが、解散した今もなお、ファンの熱意は衰えず、日本で再結成を最も望まれているグループのひとつと言っていいだろう。

かくいうわたしも、数多いるSMAPファン、通称”スマオタ”を名乗る一人である。ファン歴は浅く、2016年の初めに解散報道が出始めてからファンを名乗るようになったので、5年足らずと言ったところである。そんなわたしがSMAPについて語ることを、優しいスマオタさんたちはきっと許してくれるだろう。

思えば、SMAPは昔から当たり前に存在していた、TVの中の「面白くてかっこいいお兄さんたち」だった。学生だった頃はTVを付けるとSMAPの誰かが出ていたし、社会人になって、仕事が大変で辛かった日には「SMAP×SMAP」でやっていた5人旅を繰り返し見て、何度も笑わせてもらった。気づけばSMAPは、わたしが元気な時も、そうでない時も、特別な日にも、なんでもない日にも、ずっと変わらず近くにいてくれたのだった。そんな彼らが、もう見られなくなるかもしれない。そう知ってからようやく、その存在の大きさに気付いたのである(遅い!)。自分の日常にSMAPが当たり前にいてくれたこと、そしてどれだけSMAPの存在に助けられて来たのか。そのことを自覚してから、わたしはスマオタを名乗るようになった。

SMAPの好きなところ。すごいところ。挙げるとキリがない。それはファンである皆さんも同じだろう。キリがないけれど、書いてみたい。

まずSMAPは、日本が誇る国民的トップアイドルであるとともに、私たちと同じ、普通の人間でもある。つまり、それを感じさせてくれる”人間味”に溢れている。SMAPは、びっくりするほど歌が上手いわけでもないし、ライブでもダンスが揃っていることは稀で、最初からそういうフォーメーションだったのかなと思わせるくらいにズレたりする。だからたまにダンスが揃うと、それだけでファンは沸き立つくらいだ。それなのに、SMAPが歌って踊ると、5人にしか出せない魅力が溢れ出して、聞き入ってしまうのである。SMAPが「大丈夫」と歌うと「ああ、大丈夫なんだな」と思ってしまうし、SMAPが「がんばりましょう」と言えば「仕方ない、明日も頑張るか」と思えるのだ。かつ、「笑い」でこの世界を切り開いてきた彼らには、かっこ悪さを見せることにあまり抵抗がない。進んで汚れ役をやったりする。だけど、かっこいいことをやらせたら誰よりもかっこよくなってしまうから不思議なのだ。がむしゃらに駆け抜けてトップアイドルに上り詰めた彼らには、かつて"普通の"男の子だった彼らが持っていた、親しみやすさが残っているのである。

二つ目に、これは解散後に強く感じたことなのだが、彼らは決して他人のことを悪く言ったり、蔑んだりしない人たちだ(これは事務所の後輩たちにも思うことなので、ジャニーさんの教えなのかもしれないし、言いたくても言えないこともたくさんあるのだろうけれど…)。彼らの発言や姿勢に対して一貫して感じるのは、「善い人間」であろうと努力している、ということ。一つ目の”人間味”にも繋がることだが、彼らは決して完璧な人間ではない。吾郎ちゃんの逮捕事件や、つよぽんの泥酔事件など、メディアを騒がせた過去もある。それでも長いアイドル人生の中で、彼らは次第に「善い人間」であることがすなわちSMAPであること、トップアイドルであることだ、という自信とプライド、そして社会に対する責任感のようなものを背負っていくようになったのではないだろうか。だから、その責任感と現実のずれによる葛藤がたまに垣間見えたり、思わず本音が漏れる瞬間に出くわすと、彼らがどれだけのことを乗り越えて来たのかを思って、なんてすごい人たちなんだと涙が出てしまうのである。スマオタは民度が高いと度々耳にすることがあるが、彼らを前にすると、「彼らの名に恥じないよう、自分たちも善い人間でありたい」という気になるのだから、アイドルというのは崇高な存在なのですね。

そうしてわたしは2016年の終わり、彼らの「SMAP」としての区切りを、号泣しながら見送った。そこからSMAPがいない世界が始まり、今なお続いてる。解散から2年後に、平成の世は幕を閉じ、令和という新たな時代に突入した。

解散後も、5人、いや6人はそれぞれの道を歩み続けている。そのことが、ファンにとっての本当に大きな支えである。ジャニーズ事務所を退社して新しく立ち上げた事務所で活動を始めた吾郎ちゃん、つよぽん、慎吾ちゃんの3人、円満退所の後に個人事務所を立ち上げ独立したのんびり中居くん、事務所に残り、SMAP再結成の僅かな望みを繋ぎ止めてくれている木村くん。そして、その5人が今でも繋がっていることを折に触れて信じさせてくれる6人目のメンバー、森くん。想像できないほどの絶望があったはずなのに、それでも全員が前を向いて歩いている。そうすることが、SMAPとしての誇りであるかのように。

スマオタの中にも様々な意見を持った人たちがいるが、わたしは今でも、SMAP再結成を強く望んでいる一人である。真実は5人だけが知っていて、わたしたちは提示された事実だけを汲み取りながら、かすかな希望に望みを託している。再結成の日が訪れるかは、今はまだ、わたしたちにも、当人たちにも分からないだろう。それでも推し活に日々励むファンたちの一端としては、推しが同じ時代に生きていること、テレビやネットで笑顔を見せてくれているという事実だけで、生きる希望になっているのである。願うべくは、推したちの今が、日々が、幸せであってほしいと。欲を言えば、彼らが歩むその道の先が、また一本の道に繋がっていることを。ただ、祈るだけなのだ。

東京を夢見て③


2011年3月11日。忘れもしない、東日本大震災が起きたあの日である。その日、わたしは京都にあるカフェ「さらさ西陣」で大学の友人とランチをしていた。その一週間前まで、別の友人と二人で北海道・東北を周る卒業旅行に出かけていたので、旅の土産話に華が咲いていた。

関西では、少なくともわたしたちがいたカフェでは、その瞬間は何の変哲もない一日のうちの一秒に過ぎなかった。京都は確か震度1か2くらいの揺れで、地震が起きたことにも気づかないくらいだった。しばらくして、東北・関東地方で大きな地震があったことが分かった。東京にいる兄と姉の安否が気になって母親に連絡を取ったが、母も確認中で、姉には全く電話が繋がらないとのことだった。

数日後に兄と姉が無事であることが分かった。姉はその日、会社からの交通機関が全て不通になり、家まで約一時間の道のりを歩いて帰ったという。テレビでは連日にわたって地震津波の瞬間、それから福島の原発事故のニュースが流れていて、当時官房長官だった枝野さんの顔は日に日に翳りを帯びていった。当のわたしは、複雑な気持ちを抱えていた。「大変なことが起きている」と頭では分かっていたが、関西では引き続き変わらぬ日常が続いていて、どこか遠く離れた国で起きたことのような、何とも言えない感覚があった。同時に、震災を身をもって経験した家族や友人に対して、申し訳無さのようなものを感じてもいた。これからわたしは東京に行き、「それ」を経験した人たちとともに働き、生活を始めることになる。そのことへの気持ちの折り合いがつかないまま、ただただ、残りの日々が過ぎていく。

同時期、わたしは親友と東京で住む家を探していた。親友も東京での仕事が決まり、お互い職場も近かったので、節約のためにルームシェアをすることになったのだった。一度、家の内見に行った際、紹介してくれた不動産屋から「こんな時期に東京に出てくるのは大変ですね」と言われ、やはり実感が湧かなかったことを思い出す。

2011年4月。そうしてわたしたちは、阿佐ヶ谷駅から徒歩10分のところにあるアパートで新生活を始めることとなった。東京が、ホームになった瞬間だった。

東京を夢見て②

その日は、冬晴れで気持ちの良い日だった。試験が終わり、その足で井の頭公園に向かった。JR吉祥寺駅の南口を出て、マルイの横の路地を歩いた。古着屋や喫茶店がずらっと並んでいて、今は移転してしまった焼鳥屋「いせや」もあった。路地にもくもくと溢れ出る煙を抜けて階段を降りると、緑のなかに大きな池が広がっていた。わたしは思わず声をあげた。大きな、大きな公園。故郷の街でも、京都でも感じたことのなかった感動に似た何かが迫り上がってくるのが分かって、少し緊張しながらすぐ近くのベンチに座った。

少し先を見渡すと、公園の中央に大きな池があり、その周りをぐるりと囲む様に木々が生い茂っている。所々にベンチがあり、小さな屋台も出ていた。あちこちで子どもたちが走り回っていて、池沿いの道を様々な年代の人が歩いたり走ったりしている。池は、冬の透き通る日差しを浴びて、きらきらと乱反射していた。穏やかな時間が流れていた。池に漂うボートをぼうっと眺めていると、心が浄化されていくように思えた。

そのうちに、小さな女の子と父親らしき親子がやってきて、わたしが座っているベンチのひとつ前に座った。

それからどのくらいの時間が経ったのだろう。時刻は夕方に差し掛かり、少しずつ陽が落ち始めていた。寒さを感じてふと顔を上げたそのとき、前に座っていた親子の背中越しに見る井の頭公園の景色が、急に輝きを増したようにみえたのだ。それから走馬灯のように、今日これまでの日々の記憶が頭を巡った。早々に内定を掴んだ同級生たちのこと、進路を心配している親のこと、大学4年間で一度も恋人が出来なかった自分のこと、進まない卒論、不透明な未来。長く続いた就職活動は、これまで積み上げて来た自信をいつの間にか奪ってしまっていた。誰にも認めてもらえないかもしれない。誰にも必要とされないかもしれない。それでも今、目の前に広がるこの景色は、わたしの存在を受け入れ、「そこにいていい」と言ってくれたのだった。

あまりにも劇的な瞬間だった。奇跡というものが、ドラマや映画の中でだけでなく、わたしの人生にも起こりうるとしたら、今がその時なんだ。そう感じた。

その親子に気づかれないように、そっとその後ろ姿を写真に撮ってから公園を後にした。駅に戻りながら「この公園を生活圏にする」と心に誓った時のことを、今でも覚えている。

大学卒業を控えた2011年の一月末、わたしはあの日試験を受けた会社から内定の連絡を受け、無事に東京行きが決定した。そして大学を卒業し、卒業旅行を楽しんだ数日後に、そう、東日本大地震が起きたのだった。

東京を夢見て①

20代の前半を東京で過ごした。阿佐ヶ谷で一年、吉祥寺(に接した練馬区)で三年半。東京はまさに、青春の象徴だった。芸術に気持ちの拠り所を求めていたわたしにとって、東京という街は物語に溢れていて、そこかしこで新しいストーリーが生まれるのを体感できる街だった。

 

このブログは、2011年4月から2014年10月までの約三年半、わたしの東京での日々をたらたらと綴った記録である。

 

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大学時代、京都の西院にあった本屋でバイトをしていた。その時の店長が30代の女性で、東京から転勤してきたお洒落でイケイケのお姉さんだった。当時のわたしはサブカルにどっぷり浸かっており、つげ義春魚喃キリコandymoriの世界が正義だと思っていたので、パリピな店長を始めのうちこそ警戒していたが(パリピを何だと思っていたのか)、好きな作家や音楽が被っていることがわかり、次第に学校の先輩と後輩みたいに仲良くなっていった。恋愛話をしたり、大学生活の相談をしたり、一緒にサカナクションのライブを見に行ったり、バイト仲間で店長の家に押しかけたり、、20歳そこそこのウブな学生と仲良くしてくれて、いろんなことを教えてくれた。

 

バイトを始めて一年くらい経った頃から、本格的に就職活動が始まった。どんな職種につきたいか、どんな生活をしたいか、どんなことならやりがいを感じられるか。例に倣ってひととおり考えてみたが、上手くいかなかった。ひとつだけあったのは、「数年先の人生が見通せてしまうような仕事はしたくない」という、モラトリアムまっしぐらな希望。現実的な将来の夢というのは、いくら考えても浮かんでこなかった。本が好きだったから出版社で働きたいなあと思っていたが、じゃあ出版社に入ってどんなことをやりたいか?と聞かれると、何も答えられなかった。早く働いて自立したいという気持ちはあったが、自分にどんなスキルがあるかも分からなかったし、目標もなかった。

 

というようなことをうだうだと話すわたしに、ある日店長が言った。「君は東京に行きなよ」。君は芸術が好きで、それに触れて生きたいと思ってるでしょ。若いうちに、体力があるうちに東京に出て、いろんな物を見たり聞いたり考えたりしたらいい。東京以外はダメとか全然思わないけど、京都にしかないものがあるように、東京にしかないものもあるんだよ。それを経験しているのと、していないのとでは、これからの人生が大きく変わってくると思う。店長は真っ直ぐにそう続けた。かつて、東京だけにある「何か」を求めて東北から上京したという店長の言葉には、これから社会に出る若者を説得するに足りる力が充分にあった。

 

それから一年以上に渡って繰り広げられた就職活動であったが、東京の会社で、かつ芸術に関わる仕事を対象とした活動は就職氷河期の影響を真正面から受け、ご想像のとおり苦戦した。

 

あと数ヶ月で大学卒業という時期になっても、未だにわたしはひとつの内定も取れていなかった。そろそろ焦ってもいいはずだが、全くその気配は無かった。「どこにも受からなかったらフリーターになってこの本屋で働き続けたいなあ〜」と呑気に思っていた。親から仕送りをもらっていたから、時給800円のバイトをしながら一人暮らしすることの大変さなんて考えたこともなかったのだ。向こうみずだった頃。若さが、愚かで眩しいのはこういうことだと今はわかる。

 

そんなある日、偶然見つけた求人情報が吉祥寺の会社で、いつものように「どうせ落ちるけど」と思いながら惰性で履歴書を書いて送った。書類審査が通り、二次試験を受けるために吉祥寺に向かう途中で、会社の近くに井の頭公園があるのを知り、試験が終わったら行ってみようと楽しみにしていた。

 

そもそもサブカル大好きマンのわたしにとって、吉祥寺は憧れの街だ。住みたい街ランキングの常連で、文化と若者が集う街。吉祥寺を舞台にした漫画や映画、小説がたくさんあって、読む度にひそかな夢を抱いた街だ。お洒落な文化人は大抵吉祥寺に住んでいると思っていたし、かの井の頭公園にはかつて好きだった文化系お笑い芸人がよく出没すると聞いていて、いつか行きたいとずっと思っていた。その吉祥寺が、わたしを手招いている!