ひびはひかり

これまでの日々、これからの日々

東京を夢見て③


2011年3月11日。忘れもしない、東日本大震災が起きたあの日である。その日、わたしは京都にあるカフェ「さらさ西陣」で大学の友人とランチをしていた。その一週間前まで、別の友人と二人で北海道・東北を周る卒業旅行に出かけていたので、旅の土産話に華が咲いていた。

関西では、少なくともわたしたちがいたカフェでは、その瞬間は何の変哲もない一日のうちの一秒に過ぎなかった。京都は確か震度1か2くらいの揺れで、地震が起きたことにも気づかないくらいだった。しばらくして、東北・関東地方で大きな地震があったことが分かった。東京にいる兄と姉の安否が気になって母親に連絡を取ったが、母も確認中で、姉には全く電話が繋がらないとのことだった。

数日後に兄と姉が無事であることが分かった。姉はその日、会社からの交通機関が全て不通になり、家まで約一時間の道のりを歩いて帰ったという。テレビでは連日にわたって地震津波の瞬間、それから福島の原発事故のニュースが流れていて、当時官房長官だった枝野さんの顔は日に日に翳りを帯びていった。当のわたしは、複雑な気持ちを抱えていた。「大変なことが起きている」と頭では分かっていたが、関西では引き続き変わらぬ日常が続いていて、どこか遠く離れた国で起きたことのような、何とも言えない感覚があった。同時に、震災を身をもって経験した家族や友人に対して、申し訳無さのようなものを感じてもいた。これからわたしは東京に行き、「それ」を経験した人たちとともに働き、生活を始めることになる。そのことへの気持ちの折り合いがつかないまま、ただただ、残りの日々が過ぎていく。

同時期、わたしは親友と東京で住む家を探していた。親友も東京での仕事が決まり、お互い職場も近かったので、節約のためにルームシェアをすることになったのだった。一度、家の内見に行った際、紹介してくれた不動産屋から「こんな時期に東京に出てくるのは大変ですね」と言われ、やはり実感が湧かなかったことを思い出す。

2011年4月。そうしてわたしたちは、阿佐ヶ谷駅から徒歩10分のところにあるアパートで新生活を始めることとなった。東京が、ホームになった瞬間だった。